テンガポールやホングコング、更に
JHR建設で手一杯であった
kinntyannは当初私鉄経営をしない予定であったが、
テンガポールとして大陸側への進出を目論み
テンガポール市営地下鉄南北線(以下、南北線)を
新帝都に延伸することとなった。その際に
テンガポール市内を
テンガポール市交通局、
新帝都側を新規私鉄の管轄とすることにした。これが帝都急行電鉄の始まりである。
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当時の計画図 (ピンクが南北線、オレンジが新路線) |
この路線は現在の
都北町駅から当時海岸に存在していた村(
帝急鶴舞駅)を結ぶ短距離の路線で、新帝都の陸地(
京城駅)までを海底トンネル、そこから地上に出て村へと接続する予定であった。地上に出たところの駅(
大須駅)で分岐し、支線で
新帝都中央駅への乗り入れも計画されたが取り止めになった。
これとは別に、テンガポールは対岸の新帝都の土地をも開発するために、開発の起点となるターミナル駅を設置しようと考えた。この時予定されたターミナル駅の側を流れる川が、実際にあるソウル(旧称:京城)の漢江に似ていたために京城駅と名付けられ、周辺も京城(地区)と呼ぶようになった。
予定されていた新路線の範囲は海岸村駅〜京城駅の区間と、途中の大須駅から分岐して都北町までの区間、という予定に変更された。
ところが、工事は海底トンネルまでは順調に進んだが、建設の都合で地上に出るまでのトンネルが長くなってしまい、大須駅への接続が難しくなってしまった。そのため、大須駅での接続を諦め従来の海岸駅まで路線を伸ばすこととなった。こうして、地上側の路線が京城線として分離した。
元の地下側の路線は、もはや分割する意味を失ったために
テンガポール市交通局は管轄路線の市内完結を諦め、当初の計画にあった海岸村駅までの区間を全て南北線とした。
南北線側の大須駅が無くなったために駅間距離がとても長くなってしまうので、京城寄りの地下に駅を設置することになった。これが現在の南北線
京城駅である。
同時期、
JHR計画がある程度進行し
津(爆笑)駅が出来ると、帝急は在来線として
津(爆笑)駅〜
新帝都中央駅を結ぶ路線を計画した。これが帝都線である。
新帝都中央駅までの乗り入れ工事が完了したあたりで、当時
織田急電鉄の管轄下にあった
南町急行線も隣のホームに乗り入れており、相互乗り入れの提案があった。両者の思惑が合致していたため、すぐに接続工事を完了させ、新世界初の私鉄同士の相互直通運転(
津(爆笑)駅〜
南町田空港駅?間)が開始された。